
夜の現場は静かすぎた。
静かすぎる現場は、大体ろくなことが起きない。
「……沖副隊長、風も止まってますね」
新人の中山が不安そうに言う。
沖は白線の先を見たまま、短く答えた。
「止まってる時ほど動く」
その言葉の直後だった。
足音もなく、影だけが伸びる。
「久しぶりだな、沖」
——大和田獏郎だった。
街灯の下に現れたその男は、以前と何も変わっていない。
いや、変わっていないこと自体が異常だった。
「まだここにおったんか。パンダ警備に」
獏郎は笑う。
乾いた笑い。感情のない笑い。
「お前なら分かるやろ?こんな会社、いつでも抜けれる」
沖は振り返らない。
「大和田さん、邪魔せんといてくれるか?
今…仕事中や」
「仕事?それとも“義理”か?」
その一言で、空気が変わった。
中山が一歩下がる。
遠くで林田が無線を握りしめているのが見える。
獏郎は続ける。
「社長に恩があるんやろ?拾ってもらった、居場所くれた、飯食わせてもろた」
沖の手が、わずかに止まる。
「でもな——」
獏郎の声が低くなる。
「恩で縛られてるだけや。それ、鎖やで」
沈黙。
現場のコーンが、風もないのにカタカタと鳴る。
「オレのとこ来い、条件もいい。」
獏郎は言った。
「もっとデカい現場、もっとデカい金、もっと自由に動ける。
パンダの白線の上で一生立っとるつもりか?」
その言葉は、甘かった。
あまりにも現実的で、あまりにも冷酷な提案。
沖はゆっくり振り返る。
「……一つ聞く」
「なんや」
「お前のとこで働く連中、笑っとるか?」
一瞬だけ、獏郎の目が細くなる。
「笑う必要あるか?」
その答えで、沖は十分だった。
「ほな、無理やな」
沖は無線を取る。
「林田、現場維持や。外野が騒がしいだけや」
林田の声が少し震える。
『……了解』
獏郎はため息をついた。
「相変わらずやな。合理的やない」
「せやな」
沖はあっさり言う。
「でもな、合理で残っとるんちゃう」
一歩、前に出る。
「“ここで働きたい連中”がおるから残っとるだけや」
遠くで、天音がクスクス笑っている。
沼田は椅子で寝ている。
長松はトイレから戻ってこない。
それでも現場は回っている。
「……アホらし」
獏郎は背を向ける。
「その判断、後悔するで」
「せえへん」
即答だった。
獏郎の姿は、闇に溶けるように消えた。
静寂が戻る。
中山が恐る恐る聞く。
「副隊長……今の人……」
沖はいつもの調子に戻る。
「ただの営業や」
「営業……?」
「しつこいタイプのな」
その時、林田が駆け寄ってくる。
「沖!!大丈夫か!?あいつまた来たんか!!」
「来たで」
「どうする!?社長に報告か!?」
沖は少しだけ空を見上げる。
「……いらん」
「なんでや!」
「心配させるだけや」
林田は黙る。
沖は小さく笑った。
「社長にはな、安心して寝てもらう方がええ」
その言葉に、林田は何も言えなくなる。
白線の上に立つ理由。
それは金でも合理でもない。
——残る判断。
沖はいつも通り、誘導棒を振る。
「はい、どうぞー。ゆっくり進んでください」
何もなかったかのように。
だが、その足は——
一歩も、揺れていなかった。
今日も1日御安全に!!!🐼